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俳優たちの贈り物 [羽鳥塾]

羽鳥塾の活動を終了し、スタジオを閉めてから、早や2年が経ち、
俳優たちはそれぞれの活動を始めている。
羽鳥塾のブログを閉じるにあたり、2015年の最終記事をこちらに移動させてもらった。


★★★★★★★
羽鳥塾の活動を終了し、スタジオを閉めてから早や一か月。
俳優たちはそれぞれの活動を始めている。

そんな最中、羽鳥塾で学んだ生徒達と講師の方々による
「羽鳥を囲む会」が開かれた。

初夏の爽やかなある日、50名を超える俳優達が、
たまプラーザに集まってくれた。

囲む会.jpg

明るい笑顔に包まれて、涙が一滴もこぼれることもなく、
3時間の会はあっと言う間に終了した。

皆さんから頂いた花束と70名以上による寄せ書きの言葉を読みながら、
駆け抜けた11年間の重みをしっかりと受け止めた。
心からお礼を申し上げる。

「ありがとう」。

花束.jpg

2015年5月6日(最終記事)
★★★★★★★


今は大阪音楽大学での仕事がメインとなり、ミュージカルコースの学生達と、
俳優活動をしている卒業生たちのために創作を続けている。
良質な作品を生み出す姿勢は何ら変わらない。

今年もオリジナミュージカル作品を上演する。

『ママ、ふり向かないで』
http://www.daion.ac.jp/news/a5a6tu000003rdlx.html

2017年3月9日(木)14時/18:30 2回公演
チケット代¥1000
ザ・カレッジ・オペラハウス


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年頭所感~次代を担う若者たちへ [羽鳥塾]

  「突然、未来が変わった」。メディアに報じられるまでもなく、昨年の東日本大震災により、日本人の多くが自らの生き方や考え方を問うこととなった。

 常に変化し、時に人間に暴威を振るう自然。我々は将来どうなるか分からない世界に生きているという現実。未曾有の大災害を前に、内奥にこだまする「人生無常」。

 何のために芝居をやっているのか? なぜ他の仕事ではなく演劇なのか? 大震災以来、くすぶる根源的な問いがあった。俳優を育て、作品を創ろうと格闘することで過ぎていく毎日…。果たして私のやっていることに意味があるのか…?

 大震災で大きな被害を受けた陸前高田市が、共に教員であった祖父・祖母の最後の赴任地であることを、震災後、初めて知った。私のルーツ…。その昔、生活困難な時代に教員として奮闘、格闘していた祖父母。二人の教え子やその子孫がいる町が津波で流されていく痛ましい映像が、今でも脳裏に焼きついている。祖父母が生きていた時間に思いを馳せると、奇しくも大学の教員になった私に、残りの人生での使命が少しずつ見えてきた。

 「無常」に失望し、あきらめるのではなく、「無常」だからこそ、より積極的に生きてこその人生。次代を担う若者たちにそれを伝えていくことが、私の仕事ではないか…。

 演劇を専門とする指導を天職と心得、プロとして通用する俳優の育成に私はこれからも力を注ぐ。しかし合わせて社会に貢献する人間に育てる努力を怠ってはならない。羽鳥塾や大阪音大の多くの若者たち…。演劇を勉強し、演劇を愛することで人間として成長し、コミュニケーション能力や表現力、思いやりを武器に、たとえ将来どのような職業・仕事についたとしても、人に喜んでもらえる、信頼してもらえる人間になってもらいたい。そう強く願うようになった。

 先日、かつて羽鳥塾で学び、舞台活動していた女優さんが、看護師を目指して勉強を始めた。震災をきっかけに決心し、芝居はもうやらないと言う。「アルバイト先の病院で患者さんにお話や歌を聴かせてあげると、とても喜んでもらえる。芝居をやっていて良かった」と笑顔で語っていた。その顔の何と清々しかったことか。

 私はこれからも演劇の道を歩いていく。指導すること、教えることで、逆に教わっていく。技術だけでなく、俳優に必要な人間の「地固め」を生涯の仕事とし、合わせて人々に感動と喜びをもたらす作品を創っていく。

 人の役にたち、社会の役にたつ。それが私の仕事。 年頭の所感であった。 

   

 


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表現への意欲 ② [大きな表現] [羽鳥塾]

 (前回からの続き)

 「登場人物が何を代表しているのか」を掴むことである。

 ひと昔前の通俗的な例を出す。結婚に関する父と息子の親子喧嘩。「家の中の小さな世界」が舞台だ。だが、結婚が家同士のつながりであり、個人の選択を認めない「社会」の問題と考える父親と、自由意思に基づく「個人」の問題と主張する息子の対立となれば、事は「家の中の小さな問題」とはならない。

 父親は「保守」と「封建」を、息子は「革新」や「自由」をそれぞれ背負い、社会全体、人間全般の話となる。この「対立」構造を作家はストーリーの中で描き、演出家が舞台に露見させる。俳優は対立構造のそれぞれの「代表」として演じるのだ。背負っているものは真に大きい。

 「世界の中心に向かって愛を叫ぶ」という本があったと思うが、私はこのタイトルをもじって「代表者として、世界の中心に向かって訴えろ!」と俳優を指導している。

 このアドバイスで、「大きな表現」に近づく俳優は多い。もはや俳優個人の問題ではなくなり、自分に拘泥している暇がなくなるからだ。俳優は作家の代弁者となり、社会全体、人間全般の問題として演ずる。演技のスケールが大きくなるのだ。

 しかし発声や台詞の基本技術、感情のコントロールが未熟な俳優には効果がないアドバイスである。ただ力が入り、時に怒声となる。

 だからやはり技術は磨かなくてはならない。それと同時に「表現するという意志の強さ」も鍛えるのだ。鍛えて、鍛えて、鍛えたものを観客にお見せするのが俳優の仕事。

 作家は書かずにいられないから書き、俳優は伝えずにはいられないから演ずる。観客は喜びや感動を得たいがため劇場に足を運ぶ。

 演劇は真(まこと)に誇り高い。


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表現への意欲 ① [羽鳥塾]

 随分昔のことだが、小劇場系のお芝居を観ていた頃、帰路、不思議と元気になっている自分に気づいたことがある。発声に関して言えば、何人かの俳優の怒声は頂けないし、時として何を言っているか分からず閉口したことも多かったが、彼らにはほとばしるような「表現したい!」というエネルギーがあった。

 舞台俳優は観客に「想いを届ける」という原点から見れば、私は小劇場の出演者達から「熱い想い」を受け取り、結果、身内に活力がみなぎったのは事実だ。上手い、下手ではなかった。

 舞台俳優が持っているべきものの一つが「表現への意欲」。「人に訴えかける力」だ。

 「俳優の仕事とは、作家の書いた文体に肉体と声を貸すこと」。35年前、芝居の勉強を始めた頃に教わり、セピア色に色褪せたノートに書かれたこの言葉を、今でも時折読み返す。

 私はこう言い換えて俳優を指導している。「台本に書かれてあることを、力の限りを尽くして客席に届けろ」。「力の限りを尽くして」とは、技術はもちろんだが、俳優の魂の喚起も含んでいる。

 俳優とは「行動する人」である。しかし舞台上で登場人物が淡々と行動しているだけで、果たして観客は感動するか? 「芝居が小さい! もっと大きな芝居をしろ!」は、今でもあちこちの稽古場で演出家が俳優を鍛えている言葉だろう。

 では、どうすれば大きな表現ができるのか。

 一つの考え方がある。

 (次回へ続く)


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生き方が悪かった…?! [羽鳥塾]

新聞や本を読み、テレビだったらドラマだけでなくドキュメンタリーも観る。私が日頃生徒に「追体験」として勧めていることだ。だが、こういったことに関心を向けない俳優が時々いる。少々驚きだ。一体何を表現したくて俳優を志したのか…?

彼らは自分の感性に少なからず自信を持ち、自分は何かを表現できる人間だと信じている。だからスポットライトを浴び、お客様の拍手を頂きたいと願う。悪いことではない。だが俳優志望の動機がそれだけだとすれば寂しい。

俳優は人間を表現する。だから俳優に求められるのは人間観察と洞察力であり、それを表現する高い演技力だ。人間というものに迫る真摯な姿勢が役の造形を深めるのだ。

人が一生で経験し体験できることは様々。しかし一個人に限れば、それほど多くの経験や体験ができるわけではない。だから俳優は自分が経験や体験したことのない人生を演ずることにもなる。日頃から知性と感性をストックするための「追体験」が必要な所以である。

それには読書を初め、美術、音楽なども含めた芸術鑑賞はもちろんのこと、自分の周りの人間たちや社会への関心を持つことが必須であろう。そういった追体験によって得られた知性と感性は無意識下に置かれ、ある時演技力というフィルターを通して表現へと至る源となる。

演ずる登場人物が観客の共感を得なければ、劇場には何も起こらない。社会に関心がなく、人間を深く掘り下げてみようともしない俳優が、劇場空間の中に感動を呼び起こせるだろうか。「あー、ああいう人物、いるいる!」、「分かるなあ、その気持…」、「そうなんだよ!そう!」etc,etc…。こういった観客の共感を得た先に「感動」がある。感動が生まれてこその「芝居」である。

一方、客席には人間洞察に長けた人物が多く存在する。人生の実相を知り尽くしている観客がいるのである。彼らを納得させる知性、感性、技術が俳優には必要なのである。

もう30年以上も前になるか。求められる演技ができないベテラン俳優に、演出家がこうダメ出しをした。「結局、お前はこれまでの生き方が悪かったんだ」。

稽古終了後、更衣室で数人の先輩方が、かのダメ出しについて口角沫を飛ばしている。掃除要員としてドアの外で待っていた私に、こんな言葉が聞こえてきた。「ダメ出しでも直せるものと直せないものがある。これまでの生き方が悪かったなんて言われちゃ、どうしようもないよなあ!」。…確かに…。

今思う。このダメ出しは「俳優として日頃からの人間観察や洞察の勉強が足りない」という意味もあったのではないか。

俳優としての生き方…、俳優として生きる覚悟…。相当なものが必要だと改めて思う。


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肉体に刻み込む マグマ 2008年 7月19日 [羽鳥塾]

テキストの通りに台詞を言えない生徒が少なくない。間違えて覚えていても平気の平左だ。

「台詞が正確に覚えられなくて」とはよく聞く言葉だ。しかし台詞は覚えるものではない。体に刻み込むものだ
台詞そのものは演技のうちの一部でしかなく、出口に過ぎない。肝心なのはそれ以前の段階にある。

しかし観客に「物語の筋を伝える」という意味では、台詞は大きな役割を担う。出口を誤れば、それまでの苦労、努力が全て水の泡。

先日読んだある雑誌に、元映画俳優だった料理人の話が載っていた。若い頃、彼はロケ先で台詞が覚えられずを連発。困った末、共演していた大女優さんに相談した。返ってきた答えはこうだ。


「台詞なんて千回も言えば覚えられるわよ。私は目、耳、舌、身体と五感のすべてを使って臓腑に叩き込むようにして覚えたわ」。

…千回…。彼は雑誌の中でこう続ける。
「決められた台本というマニュアルでも、体に徹底して叩き込めば自然に操れる。けれどその徹底して叩き込むというのがほとんどできない。

体に刻み込んだことは忘れない。自転車に乗る、泳ぐ。小さい頃に体で覚えたことは大人になっても忘れない。

肉体表現として演技をとらえること。テキスト(台本)を読み解き、登場人物が体験したであろうことを想像力を使い、自らの体験として「実際に体を動かし具体的に演じてみる」。

マイムで構わない。そのことで起こってくる感情を体験しておくことは役作りに非常に有効だ。
こういった準備を繰り返す中で、テキストを何度も読み返し、「役の心情」をストーリー展開の中でつかんでいく。やがて各シチュエーションでの「心の置き所」が定まるだろう。
 

次に台詞を体に刻み込む。登場人物や台詞の解釈は確かに必要。だがそれだけでは肉体表現に至らない。「役の心情」をつかみ、「心の置き所」が定まった上で、台詞一つ一つの言葉の持っているイメージとボリュームを体に刻んでいく。雰囲気にならずに台詞を具体的なイメージでとらえていかなければならない。

「手切り」、「仕分けのマイム」、「イメージのマイム」を駆使して台詞の内容・意味を取りながら、「伝えたい」という強い意思を持ち、腹式の発声で何度も何度も台詞をしゃべり、体に刻み込む。

台詞や演技が己の血や肉となり、全身の細胞から発せられるような肉体のメカニズムを一旦作り上げておく。その結果、「マグマ」が意識の奥底に沈殿するであろう。応えたい、訴えたい、表現したいという「衝動」だ。だがその存在は一時忘れてしまって構わない。

やがてあることをきっかけに「マグマ」は噴出する。「あること」とは、すなわち他の登場人物や状況、事件等々、外部からの「働きかけ」である。想念だってきっかけになる。

俳優は「アクター(行動する人)」というよりも、「働きかけ」に対する「リ・アクター(反応する人)と言うにふさわしい


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5年目の決意 2008年4月25日 [羽鳥塾]

時は止まらない。気がついたらシアタープロジェクト羽鳥を立ち上げてから5年目を迎えている。

3月、演技クラス開講当初からの生徒さんに「羽鳥塾」の誕生日を祝うバースデー・カードを頂いた。
2004年のレッスン初日の日記にはこうある。

14時、羽鳥塾のグループレッスン初日。一人風邪による欠席で、塾生5人で開講。ハウステンボスの皆からお祝いのお花と手紙が届く。嬉しい。○○さん、『映画に出たい』の個人レッスン。

自問する。立ち上げた時の理念にブレはないだろうか? 

「俳優の育成」、「作品創り」、共に「プロ志向」であることに変わりはない。だから発表会はやらず、「公演」を目指す。

来年、第一回公演として「ファンタジーミュージカル夜物語」を予定しており、今劇場を探している。自力で公演を打つのに5年を要するということか。(まだ実現したわけではないが。

優れた作品を創る力のある演劇人は数多くいらっしゃる。だが我々もその方々に比べ、そう劣らない力量があると自負している。

我々は地味ではあるが地に足をつけている。派手ではないが確固たる演劇観を持っている。

何年もかけて創られ、多くの観客に支持を得た海外ミュージカル作品を、我々は俳優としてだけでなく、スタッフとしても体感できたという何物にも代えがたい経験を持つ。門前の小僧という言葉があるが、まさにミュージカル創りのノウハウが体に刻み込まれている。

我々は決して安易な妥協はしない。「夜物語」の出演者が羽鳥塾の生徒だけでは有料公演に値しないとなれば、一般からの俳優も公募しよう。そう決めている。「プロ」である限り、お金を払って劇場にいらっしゃるお客様の立場で作品を創らなければならない。でなければ我々に未来はない。

最近になり、美術、音楽のセクションで新しい才能と出会うことができたのは嬉しい。もちろん上演にこぎつけるには、創作スタッフ以外にもマネジメント分野での人材が必要だ。我々は今、そういった才能と情熱のある人間も求めている。

困難は続くだろう。しかしやり抜かなければならない。やり遂げなければならない。すでに台本と曲は出来上がっている。後は作品の練りこみだけだ。羽鳥塾ミュージカルクラスでは、「夜物語」をテキストとしてのレッスンも始まった

シアタープロジェクト羽鳥設立5年目を迎え、新たに気を引き締める日々である。


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職人~匠の技 2006年8月4日 [羽鳥塾]

「羽鳥塾スタジオ」に移転した。まず7月3日に演技クラスが、次いで16日からはサンデーミュージカルスクールがレッスンを開始。


テナントの改装をお願いしたのが、森繁さん。頂いた名刺には「建築 森匠」とある。
家を建てるのに最初から最後まで手がけることのできる、昨今数少ない大工さんの1人で、宮大工の仕事もされる腕前の棟梁。年齢は私とほぼ同じ。小柄な体躯。クリッとした目をキョロキョロさせながら、ベルカント唱法ばりの高い声で喋る。イタリアのどこにでもいそうな元気なおじさん風。

「低予算で、出来るだけ素敵に」「シンプルだけどセンスが感じられる」。こんな虫のいい注文にも「ハイ、ハイ。大丈夫だと思うよ」とテノールの声で応えてくれる。ご本人の語録を少し。

「弟子に『親方』と呼ばれるのは好きじゃないんだ。『森さん』でいいんだけどな」。「大儲け?考えていない。いい仕事をして、客に喜んでもらって、それでオマンマ喰っていけりゃ、それでいいじゃん」。大工さんと芝居屋。職種は違うが、共感する。

森匠さんの仕事は、素人目の私にも丁寧かつ巧みに映った。

「低予算」と「素敵な仕上がり」の妥協点ギリギリに挑戦。人任せにせず、無垢の木の床板を自らの腕で汗だくになって磨いている。仕上がりにこだわるが故で、まさに「匠の技」。何時間にもわたるであろうその作業を見た時は、さすがに感動した。だが「だって自分の仕事だよ。当たり前じゃん」。言葉を失った。


そして森匠さんが連れてきた「職人」さんたち。電気の安部さん、水道の康二君。彼らは皆腕がいいのは当たり前だと言わんばかりに、自分の仕事を的確に済ますと、サッサと別な現場に向かっていく。口数が少なく地味だが、方々から引っ張りだこなのだ。信頼できる「職人」さんとは、こういう人たちのことを言うのだろうな、と思った。

森匠 作「羽鳥塾スタジオ」。小振りで派手な設(しつら)えもない空間に毎日身を置きながら、私は自分がどのような「職人」であるべきか、行く道を再び見据えている。


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2005年度のレッスンを終えて 2006年3月31日 [羽鳥塾]

先日、テレビで吉衛門さんのインタビュー番組を拝見した。「舞台はひ弱じゃできない。鍛えて、鍛えて、それをお客様にお見せする」。この言葉は重い。

3月26日。サンデーミュージカルスクール(現:羽鳥塾ミュージカルクラス)は2005年度のレッスンを終えた。この日は各クラスともこれまでのテキストの総おさらい。一年を経て格段に進歩している生徒たち全員に心から拍手を送った。

確信したことは一つ。「稽古を続ければ生徒は伸びる」。

週に1度のレッスン。「こうすれば上手になりますよ」。我々は基本技術の提示を行っているに過ぎない。しかしそれはプロに通じる基本技術である。

あとは生徒自身が自分の力でどうやって技術を獲得していくか。「上手になるためには、上手にやろうとしてはいけない。正しいことをただ愚直にやる。それが上手につながる」。我々の信念が正しいことは26日の最終レッスンで証明された。

私はゴルフはやらないが、駅のホームではお勤めのご主人が傘でスウィングをし、昼間となれば、打ちっぱなしのゴルフ場で奥様達が汗を流している。この方たちは皆、プロが通ってきた基本技術の習得を目指している。この「本気の楽しみ」がゴルフ人口を増加させた一因であることは間違いないだろう。

サンデーミュージカルスクールも同様。面白おかしいレッスンを目指しているのではない。プロにはほど遠くても、その初めの一歩たる正しい技術の獲得を楽しんでもらいたい。子供であろうと大人であろうと。

1人の生徒のことを書く。本年度のジュニアクラスは継続生と共にオリジナルミュージカルに挑戦してもらうため、ダンス経験1年以上という条件をつけてレッスン生を募集しているが、これまでは初心者から受け入れてきた。

昨年度のジュニアクラスに入会した1人のレッスン生は歌や踊りの経験のない全くの初心者であった。しかし見学後、スクールへ参加する気持を固め、入会を決めた。第一印象は物静かな文学少女。しかし内面には芯の強さを秘めている、そう確信した。

そしてレッスン開始。発声から始まったレッスンでは、喉を開き、お腹から声を出すというエクササイスに戸惑いもあり、蚊の鳴くような「か細い声」が何ヶ月も続いた。

しかし、秋口になると小さな変化が表れ始める。演じるために必要なものを獲得しようと、忙しい学校生活の中で時間を割いているのが見て取れたのだ。彼女は自分と向き合って努力をし続けていた。

そして3月26日。受験準備で今年度限りで退会する彼女にとって、文字通り最終レッスンである。心もとなかった「か細い声」からの脱却。歌はリズムや音程をはずさず、踊りもきちんとリズムに合わせて動いている。すべてこの一年間における努力の賜物だ。

私は生徒に対して競争を促す「相対評価」はしない。下すのはいつもその個人への「絶対評価」。3歩進んで2歩後退してもいい。日々向上しようと努力を続けることで、自分と向き合ってもらいたいと思っている。

上述の彼女への評価?もちろん100点!


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羽鳥塾の稽古⑨ 型(かた)すなわち技(わざ)後編 2006年1月20日 [羽鳥塾]

台詞 ②心の動き ③体の動き 羽鳥塾ではこの3つを一致させるレッスンに入った。

腹式発声の基本に従い、立って台詞を言っていた生徒達は、動きがついた途端、途方にくれる。内面のリアリティーに支えられた動きを表現できない。ただ歩くことさえも。

それまでの発声中心の台詞レッスンが、ただの演技の一部でしかなかったことを自覚する時だ。

独白でさえ「意識や情感の流れ」で舞台上を動き、表現されなければならないことはもちろんだが、例えば舞台上に2人の登場人物がいれば、彼らは「交流の力学」で動かなければならない。

舞台上での動きは全て「意味を持つ」シンプルな表現であるべきだ。余計な動作があってはならない。心の動きと体の動き、そして台詞を一致させる「技(わざ)」。これが日本の伝統芸能には「型」として存在する。見事。

私が「その歩き方は変だ。心の動きと合っていない」と真似てみせると、「そんなおかしな動きしてますか?」と、レッスン生たちは心外な顔つきをする。彼らは内面の働きのまま自然に動いている「つもり」だ。しかし、「俳優の自然は観客の自然ではない」。


生徒達はそれに早く気がつき、観客に違和感なく、演技をとらえるためにはどうすればいいかを追及しなければならない。

内面を表現するための自分の動きを「自然に見える型」として創造し、肉体に刻んでいくことが必要なのである。「己(おのれ)の型の確立」。それが舞台での「リアリティー」へとつながっていく。

「物言い」も同様。台詞が早口な生徒がいる。彼は普段も早口。自分にとってはリアルだが、観客は彼が何を喋っているかわからない。舞台上での動きもせせこましい。

台詞は観客に登場人物の心の動きだけではなく、作品のストーリーを知らせる大切なツールである。体の動きはそれをさらに増幅させてくれる重要なアイテム。

観客には登場人物の心の動きと作品のストーリーを知る権利があり、俳優はそれらを知らせる義務がある。義務を放棄してはいけない。だから俳優には表現技術としての「型」、すなわち「技(わざ)」が必要なのである。

「ローマ狂言一座に学ぶもの」で繰り返し述べた「表現したいという欲望・意欲」を強く持つ一方で、技(わざ)を磨く。発声の技、情感を喚起する技、身体表現の技。技(わざ)を駆使し、自分の内面に起こっていることを観客に届ける。これが俳優の仕事である。

もう一度言う。自分のリアルが観客のリアルではない。観客に自然に見えることは必要だが、それは必ずしも俳優自身が自然にいることではない。


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